2006年10月28日 (土)

殺人上等!

B000jbxy7g09mzzzzzzz 昨日は渋谷へ。用事を済ませた後は夜までお散歩。
その後西口近くのさくら通りの坂を上り、シアターNへ向かった。
先月号の「映画秘宝」でべたボメしていた「
マーダー・ ライド・ショー2 デビルズ・リジェクト」 を見るためである。

プロットは至って簡単だ。舞台は70年代後半の米国中西部の片田舎。 殺人一家に兄を殺された保安官が私怨込みで彼らを追い詰めるというロードムービー(ホント簡単だ)。

で、何がスゴいって徹底したエログロ描写。一作目を見ていないのでなんともいえないが (もっとスプラッタだったらしい)、人質にしたオバさんを銃で脅してストリップさせるわ、パンティの中に銃口を突っ込んで 「ちゃんとキスしね~とブッ放っすぞ」とか、見ているこちらがガッツポーズしたくなるシーンのオンパレード。 ブレーキの壊れたアブノーマル人間が銃を持ったらこうするだろうなっていうか、要するに普通の映画じゃ陳腐過ぎて、 あるいはコードの壁で描かれないものがダイレクトに目の前で展開される。

カメラワークも含め全編にわたって60年代後半のアメリカンニューシネマへのオマージュが捧げられており、 オタク心をくすぐるとか、監督がロブ・ゾンビだけにサントラが素晴らしいとか、書こうと思えばホメ言葉はいっぱいあるんだろう。

でもこの作品がほかの凡百の映画に決定的な差をつけている部分は別にある気がした。 それはいわゆる型にはまった勧善懲悪、お決まりの善悪二元論をハナで笑い飛ばしている脚本ではないかと思う。

気狂いピエロのパパをはじめ、殺人一家のキャラがあまりに濃すぎて見過ごされがちだが、この映画で一番重要な役はウィリアム・ フォーサイス演じる、一家を追い詰める地元警察のワイデル保安官だろう。米国人の〝ヒーロー〟 エルヴィスを崇めているあたりもやたらと示唆的なのだが、 この保安官のふりかざす正義感は神の名のもとに戦争を仕掛ける今のアメリカそのものだ。「悪いヤツらは死んで当然。法律なんか関係ねえ」 ってんだから。「Devil's Reject(意訳して「悪魔よりもワル」)」は殺人一家だけでなくこの保安官も指しているのだろう。 ひねくれ者の私なんかはこの保安官にシンパシーを感じてしまうほど。

絶対善、絶対悪などそもそもこの世に存在しない。善なる存在(と一般に思われている人間) もいとも簡単に転向する。当たり前のことを描いているに過ぎないが新鮮さと懐かしさを同時に感じる。

テーマの普遍性といい、ディテールののこだわりといい、見終わった後の爽快感といい満点のデキ。 文句なく個人的に今年のベスト5入りする傑作だ。 こういうすぐれた映画がややエログロというだけで成人指定のような扱いでしかないのに首をかしげる。 昔だったら地上波でもバンバン流されていたジャンルだと思うんだが…。

ちなみにシアターNでは、昨年世界中のファンタスティック映画祭を席巻し、 成人指定なのに全米№1になった拷問映画「ホステル」が、「Devil's Reject」 の後釜として上映される。なかなかツボを心得た映画館だ。

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2006年9月 1日 (金)

時を〝駆ける〟少女

Poster02_1 今日は靖国通り沿いのテアトル新宿へ。 「時をかける少女」を見た。

以前「ヨコハマメリー」を見たときと同様に平日に行ったのだけれど、あのときとは比較にならない人だかり。少し早めに、 20分くらい前に入場したが整理券番号は120くらいだった。この混雑ぶりはシネマライズで見た「ヒトラー 最後の7日間」 以来だったかもしれない


アニメは好きな方だ。「時かけ」はキャラデザインがエヴァンゲリオンも担当した貞本義行氏。ジブリとはまた違った意味で無垢さというか、 処女性のようなものをキャラクターに投影できる人だと勝手に思っている。
今はそういう純粋さを体現できる女優は絶滅の危機に瀕しているし、あんな他人行儀のかけらもない共同体なんて今の日本にあるかどうか。 アニメーションという手段を選んだのは製作側にとって自明だったのだと思う。

Mo4317_2 劇場で見たアニメで不快になったものは数知れない(エヴァもそう)けれど、ついつい涙ぐんでしまったのは 「
クレしん オトナ帝国の逆襲」 以来だったかな。で、この細田守監督。相当に力のある人だと思った。
タイムリープをわかりやすく表現する繰り返しの多用や、「
マインド・ ゲーム」 をほうふつさせる〝走り〟のディフォルメ。ラスト近くの主人公の泣きの演出(どうやらのび太泣きというらしい)なんかは、CG、 リアリズム一辺倒の近年のアニメーションからはすっぽり抜け落ちているもの、つまりアニメでなければできないこと、 アニメだけが表現しうるものがふんだんに盛り込まれていると思う。

ブログをあたっていたら〝
ヤフーレビューで「時をかける少女」ファンが「ゲド戦記」 を酷評工作か〟 というエントリを見つけた。以下一部引用。

ネットで酷評されているとされる「ゲド戦記」だが、 驚くべき事実が明らかになろうとしている。
主にヤフーの映画レビューを中心に、同時期に公開されている「時をかける少女」 のファンが「ゲド戦記」   を酷評して回りながら、同時に   「時をかける少女」を 宣伝して回っているというのだ。
    (中略)一方、「時をかける少女」に対して少しでもネガティブなレビューがあると“ 「このレビューが役に立った」:   56人中9人、   そして高評価に対しては“ 「このレビューが役に立った」:448人中424人といった具合である。   

わたしはまだ「ゲド」を観ていないのでめったなことは言えないけれど、この工作活動を好意的に解釈すれば、「時かけ」 をより多くの人に観て欲しいだけなんじゃないかな。正当に評価してもらうためにいい悪いは別にして一番効果的と彼ら、 彼女らが信じる宣伝行為を行っているだけな気がする。

こうやって映画はカルト化していくんだろうし、「時かけ」はその価値を持つ映画だと思う。少し間を開けてまた行きたい。

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2006年8月17日 (木)

インティファーダの真実

このお盆休みは久しぶりに映画館に脚を運んだ。
今日は午前中に渋谷のアップリンクで「
ガーダ パレスチナの詩」を見た。

Gahdamai これはガザで暮らす一人の難民3世の女性とその家族の肖像を2000年に始まった第2次インティファーダと絡めたドキュメンタリーフィルム。 ただこれはニュートラルな立場からの記録映画ではない。
古居みずえ監督は主人公の女性や家族に (適当な言い方ではないかもしれないが)深く食い込み、完全にパレスチナ側の文脈で描いている。 その正否はともかくイスラエルのプロパガンダに首まで浸かっている当方からすれば新鮮だった。

現代っ子で古い慣習を嫌い、ガザという都会に出て行った主人公ガーダが、 戦闘の只中に置かれる中で自らの民族アイデンティティに目覚めていく過程が素晴らしい。

〝抵抗闘争〟と訳されるインティファーダは、一般的には、 投石などの暴力的行為を指すのだろうけれど、ガーダはパレスチナ難民の歴史の記憶を本というかたちに残すことでイスラエルに対し〝闘争〟 を試みる。無残にも殺害された若者だけではない。老人や女性たちもそれぞれのインティファーダを闘っていたのだ。
それにしてもイスラエル軍による非戦闘員殺害などの犯罪的行為がここまで生々しく描かれている映像は初めて見た。 「
インティファーダの真実」 というサイトに詳細なデータが載っているが、我々はこういう事実をもっと知らなければならない。 でなければレバノンにおける一方的虐殺の類は何度でも繰り返される。


おとといはひたすら冗長な「パイレーツだっちゅーの」を半分寝ながら見ていただけに、 この日は素直にスクリーンに没入できた。

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2006年6月 9日 (金)

ココシリ体験

久しぶりに、本当に力のある映画を見た気がした。

もちろん「ダ・ヴィンチ」じゃあない。あれも確かに力の〝入っている〟映画ではあるんだろうけど、無宗教の当方にとっては眠いだけ。 つまりは頭を空っぽにしてひたすらオドレイ・トトゥの鑑賞に徹していた(美しい。いるだけで画面が〝もつ〟女優さんになったんだなあ…)。

Photo03 それはともかく力のある映画。 シャンテシネで「ココシリ」を見た。
毛皮狙いの密猟による乱獲で絶滅の危機に瀕しているチベットレイヨウを守るため、 海抜4700㍍で延々密猟者を追いかける私設警備隊を描いた作品だ。

まず映像に力がある。
現地で半年にわたる長期ロケを敢行、撮影されたありのままのチベットの風景はひたすら澄み切って美しい。見ていて、 以前真冬の湖水地方を旅したときのことを思い出した。オフシーズンのため見渡す限り無人の荒野。(チベットとは比較にならないけど) 射すような冷たい空気に晒されながら、圧倒的な寂寥感にふるえた。この映画もそう。誰に対しても平等にふるまい、 そして牙をむく自然を一切のムダを排した映像で端的に捉えてみせる。

俳優(もしくは演出)に力がある。
Working Title」 さんの記事によればほとんどが素人とか。それにしては緊迫感とリアリティが完ぺきに調和していた。 というかあれほどの過酷な環境に放り出されればプロも素人も関係ないのかも。 雪中に置き去りにされる役柄ながら化粧ひとつ崩れなかったホワイトアウトの松嶋菜々子とはエラい違いだ。 この監督は撮影に先立って1年現地に滞在し、住民との信頼関係構築に務めたというが、その熱意が見事に実を結んだ。

そして物語に力がある。
単純な善悪二元論ではない。パトロール隊は押収した毛皮を売りさばいて活動資金に充てるし、(当然逮捕権はあるのだろうが) 拷問もいとわない。そして何より「お前は人間よりカモシカのほうが大事なのか」という密猟者のリーダーの言葉が強烈に響く。 砂漠化によって牧草地が消え、生きる術を失った人々はやむなく密猟に手を染める。 そして自らの文化やアイデンティティの象徴ともいえるものを破壊してしまうのだ。

まるで沖縄みたい。

環境は重要だし自然保護が正しいのは誰でも知っている。けど「オレらが食えなきゃしょうがない」のもまた確か。 グローバリズムや資本原理主義、そしてそれらに抗おうとする人々が陥りやすい罠が見事に表現されていたと思う。

文句なしの傑作だ。

ただ平日の午後だったにしても、お客はジっちゃん主体で2割程度。しんどいからあんまり込んでるのも困るけど、 宣伝とかもうちょっとうまくできなかったものか。 ソニーピクチャーズもあんましカネかけられないのかもしれないがこれほどの作品だけにもったいない気がしたのだった。

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2006年5月24日 (水)

good night and good luck.

3ee06170s 「ダ・ヴィンチ」 にも後ろ髪を引かれたが、今日は早々に公開終了が決定したっぽい 「グッドナイト& グッドラック」を優先して見てきた。尺は約90分。 やっぱり映画はこのくらいがちょうどいい。

説明セリフのあまりないドキュメントのような脚本だった。50年代前半の米国に吹き荒れた反共ヒステリーについて、 ある程度の予備知識を前提としているように思う。マローたちが闘った相手はマッカーシー上院議員一人に留まらない。 彼が象徴する時代の空気そのものだったからだ。この点に関しては以前ウォーレン・ビーティの「レッズ」やデ・ニーロの「真実の瞬間」 を見ていたことが役立った。「赤狩り?何のこっちゃ」ならダイアン・リーヴスのヴォーカルを聴きながらまどろんでいたことだろう。 (蛇足だが「真実の~」は原題「Guilty by Suspicion」が当時の空気を明確に現していたと思う)。

見終わっての感想は「こういう時代もあったんだ
」ということ。本番中に吸うたばこもさることながら、 報道番組がジャーナリズムの名の下に極端なリベラル寄りのポジションを取り、 権力者に対峙することが視聴者の共感を得る時代があったのだ。それだけマッカーシィズムのもとの弾圧が異常だったともいえるが、 米国や日本の現状を鑑みれば神話的とさえいえる光景だろう。

マッカーシーの弾劾成功に酔う間もなく、 スポンサーのアルコアは番組を下り、「シーイットナウ」は日曜の午後枠に追いやられる。テレビの急速な普及に伴い「んなしらねーよ。 もうウチら考えんのめんどいからさ。とりあえずおもろいもん見せろ」とばかりに一般大衆の興味はクイズなど娯楽番組に傾いていったわけだ。

それはある意味自然なことなのだろうけど、それにしても今のテレビは行き着くところまで行った気がする。報道、 ドキュメンタリーは言うに及ばずバラエティーも昔のような力のある番組は消えてなくなり、どこかで見たような焼き直しのものばかり。 ドラマはキャスト優先でリアリティゼロ。 アメリカでは素人オーディション番組の投票数が大統領選を上回ったとか何とかいう話まであるくらいだ。 マローの危惧は最悪のかたちで実現してしまった。

けれど変化の胎動はなくはない。 多チャンネル化が進み、ブロードバンドが一般化し、ネットが普及するにつれて個人の興味嗜好はより細分化された。 巨人戦の視聴率低迷やマンガ雑誌の売り上げ減なんかはその典型例だろう。「どうだおもしろいべ?」と送り手が提示してきた価値基準を、 わたしたちはもはや正面切って受け止め、消費することはないし、そうすることを「アホくさ」とすら感じる人々の数は確実に増大している(同時に思考停止に陥った人も増えちゃったかもだが)。

こういった変化がいわゆる個室化、 孤独化をより加速させ、今以上に個人がむき出しになり国家に依存するのか。それともフランスにおけるデモのような横の連帯につながるのか。 仮に連帯したとして私たちは何に対して異議を唱えるべきなのか。そう考えると今だにマスメディアの役割は大きいなとか思った。



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2006年5月12日 (金)

芸術と教育 「ベルリンフィルと子どもたち」

Ph2_bptop  HDRにぶち込んであった 「ベルリン・フィルと子どもたち(原題:RHYTHM IS IT!)」を見た。 ベルリンフィルの指揮者サイモン・ ラトルの発案によるプロジェクトを記録した映画。人種、宗教などそれぞれ異なる背景を持つ子ども250人が集められ、 創作ダンスを練習、オーケストラに合わせてのダンスを大観衆の前で披露するまでを描く。

 映画を見ながらある記憶が蘇ってきた。わたしが通っていた中学校では文化祭で合唱、 創作ダンス、壁画製作、学級展示などをクラス対抗で行う伝統があり、まさにこの映画と同じような光景が繰り広げられていたからだ。 おしゃべりに夢中な女子に、斜に構えてやる気を見せない男子…。こんなんで満足に発表できるわけない。誰もがそう思っていた。

そんな雰囲気が変わり、みんなが一丸となったきっかけは何だったろうか。 他のクラスが予想以上の進歩を見せているのを知ったとき(また担任が煽るんだわ)かもしれない。それまで寡黙に練習に励んでいた女子が突然 「みんなマジメにやろうよ…」って泣き出したときだったかもしれない。

壁画担当だったわたしの場合はあるクラスメートの知られざる姿を目撃したことだった。 締め切りには到底間に合いそうにない。諦めムードの中、普段隠れてタバコを吸っていた奴が突然わたしたちを指揮し始めた。 実はメチャクチャ絵心のある奴だった。結果ありえない速さで完成にこぎつけた(もちろん賞は逃したが)。

合唱、ダンスの練習や、壁画製作などはほとんど授業の枠外で行われていたように記憶している。 授業に組み入れたのは音楽の時間ぐらいだったろう。 塾通いが当たり前になった今では想像もつかないけれどみんな普通に夏休みに学校に出てきたし、放課後の1~2時間、 部活の前に必死で練習した。そうしてそれまでは机を並べているだけだったクラスメートがひとつになっていった。 一生の友人ができたのもこの頃だった。

    おそらく美化込みの思い出を延々と述べてしまった。 この映画を見て同時に感じたのは芸術が学校教育においていかに重要な位置を占めているかということだ。 わたし自身知らず知らずのうちに組織立って物事を進めること、 それぞれの個性を生かして適材適所で作業することの重要性などを実践から学ぶことができたと思う。サイモン・ ラトルも公開にあたってのインタビューでこう語っている

他者とどう付き合うか、共同作業はどう行なうか、 感情をどう表現するか等を教えるのに芸術を用いるんだ。特に十代はいろいろな感情が内面から湧き出てきているのに、 それをどう表現したら良いか分からず破裂しそうになってるだろう、“魂のにきび”って言ったらいいのかな(笑)。 芸術は全ての物事に信じられない程の影響力を持つんだ。何かを癒すだけでなく、他のものを学ぶ手助けにもなるんだ。  

ベルリンフィルと共演した子どもたちも、わたしも、 そして同じような作業を行ったことのある人はすべてこの芸術の力を実感した経験を持つ。 そしてその経験は人生においてかけがえのない財産に転化していく。

    ここまで書いて思い出したことがある。 義務教育国庫負担金の問題だ。例の三位一体の改革で、 国は本来は憲法で国家に課せられた義務である教育の提供を税源委譲の名を借りて自治体に押し付けようとしている。 委譲された税源<地方交付税、補助金なのは明らかだから、自治体が自前で教育を提供しようとすれば質を落とすか単価を上げるしかない。 義務教育の建て前上後者は取りえない。必然的に地方の教育は劣化していく。アメリカで行われたように芸術、 体育の教員がリストラされる事態も起こるだろう。

001212 ググってみたところ文科省のサイトに教育の地域間格差について背筋の寒くなるようなレポートが掲載されていた。 税源委譲の結果40都道府県で財源不足が生じるという。すでに一般財源化した教材費、 旅費などではモロに格差が生じているのに今度は教員の人件費(現在は国と地方で折半)に手をつけようというのだ。 なぜこんなことがまかり通るのか不思議でならないし、そもそもこんな重要なことを知らない人が多過ぎる。

    不況を経験したベルリンは芸術の力で蘇ろうと模索しているとある雑誌で読んだ。 賃料が安いため欧州各地から若手のアーティストが集結しつつあるのだそうだ。前述したインタビューのラストでラトルはこう語る。

私は感じているんだよ、我々教育に携わる者は長きに渡って型にはまった人間を育ててきたと。 我々がこれまで築いてきた社会は消えたのだと思う、これからの社会のためにもっとクリエイティヴな人間が必要だ。 違う物事を結び付けたり、新たな方向に進むことのできる人間が必要なんだ。そして言葉でなく、芸術こそが社会を盛りたて、 人々に活力を与えるんだ。芸術は言葉よりもパワフルなんだ。(中略) いまベルリンではかつてない規模で経済破綻が進んでいる。芸術は存続のために戦わなくてはならないだろう。 我々は行動を起こさねば、これからの時代を生き残るためにね。この狂った時代、人々は芸術全般に生きる意義を見い出すだろう。

    わたしたち日本人は、 この狂った時代において何に生きる意義を見出すのだろうか。

 

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2006年5月 9日 (火)

〝時代〟への鎮魂歌 「ヨコハマメリー」

Mo4123_1     G.W. に浮かれる世間と、腹立たしいほどの行楽日和に嫉妬していた多忙な日々が終了し、今日は久しぶりの完全休日。 いつもよりちょっとだけ早起きして新宿へ。靖国通り沿いにあるテアトル新宿の階段を下りた。

    「ヨコハマメリー」を見た。

    わたしは涙腺がゆるいほうだ。音楽を聴いても、映画を見ても泣く。 最近で言えば「同じ月を見ている」で号泣した。そういう自分に対して自覚的だから(あるいはそうありたいから)、〝感動〟 という言葉に対しては常にものすごい抵抗とストレスを覚えてきた。わたしにとって「泣かされる」と「感動する」はイコールではない。そして、 このドキュメンタリーフィルムを見たことにより不覚にも(?)流した涙は間違いなく後者によるものだと思う。

    東北のド田舎、しかも盆地の真ん中で育ち、中学生時分 「あぶない刑事」のVTRを擦り切れるほど見たわたしにとって、横浜という名前は特別な響きを持つ。有体にいえば「自由」と「開放」 を意味していた。 だから横浜の大学も受けたし、東京に出てきてからも何度となく脚を運んだ。ところがわたしが初めて訪れた90年代後半 (奇しくもメリーさんが姿を消した直後)の横浜は、すでに「あぶ刑事」のイメージとはだいぶ異なって見えた。

それがわたし自身の変化なのか、 それとも町そのものの変容によるものなのかは当時はわからなかったけれど、 今にして思えば新自由主義にもとで大々的に行われたコミュニティー崩壊の前兆がすでにあったのかもしれない。

    約90分の尺の中で、 公共の概念が急速に消去されつつある近年の町の変容について直接的に語るシーンはほとんどない。 舞台女優の五代路子さんがメリーさんの姿で現在の伊勢左木町を歩いた部分があるが、 おそらくただ一度だけ通常のドキュメンタリーの手法から外れているこのシーンも、どちらかといえば監督の横浜という町への慕情、 町の風景そのものだったメリーさんへのオマージュではなかったか。

1000889_02_1     それでも、いやだからこそ余計に感じるのかもしれない。まともではない世の中で生きていくためにはまともではいられない。 意識的に他者との関わりを断ち私的空間に閉じ篭ることになる。 少なくとも今のわたしには容易になしえないコミュニケーションのあり方が、 あの時代を生きた人々にとっては当たり前だったのだろう。

    映画のラスト、ひとつの奇跡が起きる。 わたしはこれまで一般の方に比べれば多くの映画と、それと同じくらいのドキュメンタリーを見てきたと思う。 けれどもこれほど心を揺さぶられるシーンはそうない。本物の人生を生きた人の顔はここまで心を打つ。翻ってお前の顔は?  鼻をすすりながら自己と向き合うことを余儀なくされていた。

 

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2006年4月26日 (水)

革命いまだ成らず?

    今日は新宿へ。コマ劇前の新宿東急で 「Vフォー・ヴェンデッタ」を見てきた。 mo4091.jpg

    脚色を担当したウォシャウスキー兄弟(姉弟?  詳細は町山智浩氏のブログを)をはじめ「マトリックス」 のスタッフが再集結。英、独資本で昨夏に公開予定だったが、同時期にロンドン・テロが発生。 テロリストを賛美する内容のため公開が延期されたいわくつきの映画だ。

    先週のニューズウィーク日本版でボロクソに叩かれていたので期待半分で見に行ったのだが、これが「期待半分」に違わぬデキ。 原作のコミックが80年代に描かれたもので(独裁者の名前はサッチャー+ヒトラーでサトラー。語り口はブッシュそっくり)、 舞台はロンドンだけにマトリックスよりはすんなり物語の淵に入り込めたが、飛び込んでみたら存外底が浅かったというか。

    プロットはマトリックスとほぼ変わらない。人を支配するシステム (Vでは独裁体制による恐怖政治)があり、異分子が(ここではVがモーフィアスよろしく)仲間を集めて革命を試みるというものだ。 原作モノだけにキャラクターの魅力は秀逸だし、ディテールへのこだわりはマト同様。大学のときに見たマト1stには結構衝撃を受けただけに、 「V」の収まりの悪さは何なんだろうと思いながらラストの爆破シーンまで見終わってようやく気付いた気がした。

    あまりにワンパターンかつステレオタイプなんだと思う。 革命や体制変革といったものを単純な勧善懲悪の枠にはめると途端にウソっぽくなるからだ。属人的な独裁よる全体主義国家は、 それのみとして捉えれば、悪には違いない。でもそこに至る過程は民主的だったはず。そのプロセスが描かれてないためか、終盤の一般市民が 〝目覚め〟るシークエンスも説明不足で、単なる「仮面オフ会」としか感じられなかった。

    例えば「スターウォーズ」におけるパルパティーン(皇帝) の台頭はきっちり説明がなされていた。彼の登極は、腐敗した共和国の官僚制度撤廃という善なる目的のため、 そして元老院というまさに民主的な手段をもって行われたものだった。 いつの時代も独裁を生むのは民衆の総意であるという皮肉が見事に描かれていたと思う。

M46 「マトリックス」 でいえば印象に残っているモーフィアスの言葉がある。「まるで現実のような夢を見たことがあるか?  もしその夢が醒めないとしたら、お前はどうやって夢と現実を区別できる?」(微妙に違ってる気も)というやつだ。 ネオは赤いカプセルを飲んで荒廃した現実世界で目覚めることを選び、マトリックスから抜け出したことを後悔しているサイファーは、 彼にとって実りや幸福の感じられない現実世界に見切りをつけ、永遠に醒めない夢(マトリックス)を選んだ。

    わたしが「マトリックス」 シリーズを通じて一番印象深いキャラクターが実はこのサイファーである。ヤなことは見たくない。だったら夢の中で安逸をむさぼることを選ぶ。 この生き様が現実から目を背ける自分自身を鏡で見ているようだったからだ。

けれど映画とは違ってわたしが生きるこの世界は現実世界そのもの。 プログラムではない以上自らが拠って立つこの土台が崩れてしまう可能性だってある。ならばわたしは赤いカプセルを飲んで「目覚め」 るしかないのでは…などとマジに考えさせらた。

    「V…」 には映像表現も含めて見る側を瞠目させるような新しい要素は皆無だった。 現実のパロディーとしてああいう脚本を書いたのもしれないけどパロディーにしては品がないもの。

    といったようなことを考えながら前述の町山氏のブログを読んでいたら「V…」の脚本は「マトリックス」以前に完成していたことを知って納得。 これを踏み台にしてあのアイディアが湧いてきたと思うとしっくりきたのだった。

  

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2006年3月29日 (水)

愛すべきB級映画たち

L_img_01_1今日は新宿で少し暇ができたのでたまたま割りチケを持っていた松竹へ。一番待ち時間が少なくて済む 「サウンドオブサンダー」を見てきた。
以下
公式ブログにあった惹き文句を引用。

西暦2055年。人類の長年の夢・タイムトラベルが可能になった時代。 シカゴにある大手旅行代理店タイム・サファリ社では、6500万年前にタイムトラベルし、 恐竜狩りを楽しむという画期的なツアーが人気を集めていた。しかし、人々はまだ気づいていなかった。過去への旅が、 恐ろしい危険をはらんでいることを・・・

余りに稚拙なCGと実写の合成(女優が足踏みしているのがバレバレ)や、破壊シーン (ミニチュア。日本の戦隊ものみたい)に激萎え。製作者こそ過去に戻って映画を作り直せよ。とか思ってイライラしながら見ていた。

ところが中盤以降、 過去を変えたことで生物の進化に変化が生じたあたりから俄然面白くなってきた。何せカブトムシが大量発生して人を殺したり、 爬虫類と霊長類が交じったような獰猛な生物が「ジュラシックパーク」のヴェロキラプトルばりに人を襲ってきたり、 FFに出てきそうな水棲モンスターが突然出現したり…。

わたしはゾンビ映画が大好き(ちなみに今使ってるPCの壁紙はこんなだったりする) なだけにこれにははまった。後半はシリアスな展開になればなるほど、チープさとの落差が際立ち、笑いをこらえきれず吹き出し連発。 隣のオジサンに睨まれてしまった。

M030431a_4 ハリウッドはたまにこういうトンデモ映画を作ってくる。最近でいえばわたしが覚えているのは 「コア」 だ。こちらは地震兵器の実験により地球の核の運動が停止し、次々と異常現象が発生。核の運動を再開させるために地中へドリルマシンで潜る… という作品。

高温高圧をナメ切った余りに非科学的な設定だけに、ボロクソにけなす向きも多いようだが、 わたしは結構楽しめた。方向感覚の狂ったトラファルガー広場の鳩がボタボタ落ちてくるシーンは迫力があったし、編集のテンポも良かったもの。

この映画にはなぜかあのヒラリー・スワンクも出演している。ミリオンダラーベイビーの前年。 まだ作品を選べる段階ではなかったのかな。「サウンドオブ…」のベン・ キングスレーもそうだけどこういうB級作品に出る名優を見るのも面白い。

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2006年3月14日 (火)

「白バラの祈り」と「男たちの大和」

Mo3988_2 久しぶりにシャンテシネへ行ってきた。 「白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々」を見るためである。平日の昼間というせいもあったろうか。 7割ほどの入りだったが年齢層が思いっ切り高かった。

舞台は第二次大戦終戦間際のミュンヘン。反戦、反ナチ活動をしていた学生たちが捕らえられ、 わずか5日後に処刑されるまでを描く。兄とともにギロチンにかけられたゾフィー・ショルはまだ21歳だった。 90年代に入って新たに発見された供述調書をもとに再現された、ゾフィーとベテラン尋問官との対決がこの映画のハイライトだ。

映画の引き文句は「世界中の観客がすすり泣いた感動の実話」。隣の若い女性も、 その前のオバちゃんも終盤には耐えられない様子でハンカチを取り出していた。わたしは映画後半の何か乗り移ったようなゾフィー=ユリア・ イェンチの演技に圧倒されてに涙を流す余裕すら与えてもらえなかった。

役作りについては公式の彼女のインタビューで納得がいく。 プロテスタントだったゾフィーの宗教観を反映させたかったようだ。 このサイトではローテムント監督のインタビューも動画で見ることができるが、わたしがもっとも印象に残ったのがこの言葉だった。

(1968年生まれの)わたしはナチスの戦争犯罪に責任は全く感じていない。 ホロコーストやユダヤ人に対しても私自身の責任は感じていない。その一方でこうした殺戮により多くの人が犠牲になったことを、 自分たちの世代が次の世代に残す大きな責任があると思っている。

自虐でも排外的な偏狭ナショナリズムでもないバランスの取れた真っ当な考え方だと思う。 昨年シネマライズで「ヒトラー最後の12日間」(原題The Downfall)を見た後も感じたが、 ドイツ人というのは本当に真摯に自己と向き合う国民だ。翻って我がニッポンは「男たちの大和」だもんな…。別に「大和」 が悪いというのではない。「大和」〝だけ〟というのが問題なのだと思う。

太平洋戦争を直接的に体験した人たちが日を追うごとに少なくなっている今、 わたしたちは次の世代にあの時代について伝えられているだろうか。というか既にその記憶は断絶してしまっているのではないか。

現に自衛隊官舎に反戦ビラ撒いたくらいで身柄を取られ、挙句に有罪判決を食らうような言論弾圧がまかり通っているし、 住民投票で基地移転の反対意見が大勢を占めても、法的拘束力がなければ関係ないとばかりに、国家元首がうそぶく国だ。 大手メディアをはじめとするこの国の表現者たちはどんどん権力に対する批判能力を失っているのではないか。 そんなことを考えながら丸の内仲通りを歩いていたら一層寒さが身に応えた。

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