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2006年9月22日 (金)

麻原裁判雑感

旧聞に属する話ではあるが麻原裁判について。
予想していた結果、そして予想していた報道ではあったが少しがっかりした。もちろん死刑確定が残念だというのではない。 この異議申立て棄却によってまたひとつ「法の支配」という近代法の基本理念から遠ざかってしまったんかなあ…とかぼんやりとした思いからだ。

95年3月20日の地下鉄サリン事件以降、 この国ではある事件を許しがたい犯罪と認識する閾値が下がってきたのではないか。このときを分岐点として社会のリスク許容度というか、 本来共同体が内包していた寛容さが猛烈な勢いで失われていったように思う。
わたしは当時ド田舎の高校生だったので東京の雰囲気はわからないが「ニュースワーカー」 の美浦さんは当時の空気をこう振り返る。

 警察はなりふり構わず、と言っても過言ではない捜査を進めた。 オウム信者で幹部クラスとみれば、ありとあらゆる法令を駆使して逮捕した。それほどの幹部でなくても、 カッターナイフ1本を所持していただけで銃刀法違反の現行犯とみなすことまでやった。教団幹部が一人、また一人と逮捕され、 とうとう松本智津夫が逮捕され、テロ実行部隊のリーダーとみなされた逃亡中の幹部が逮捕されて、 何となくほっとしたのはわたしだけではなかったと思う。それは、もう「見えない脅威」におびえ続けなくてもいいのだ、 という安堵だったと思う。

野田敬生さんあたりが以前から指摘されていることだが、 この事件によって行政改革の槍玉に上げられていた公安調査庁が息を吹き返した。
同時に盗聴法、表現・メディア規制、住基ネット、監視カメラ、生活安全条例、「青少年保護」を謳ったネット規制、有事法制など (こうしてみるとホントにたくさんの法律ができたんだなあ…) 市民の行動やメディアの活動に対する監視と統制を可能にする条件面の整備も着々と進められている。
どっかその辺でワーワー騒いだ人々を除けば、基本的にわたしたちの社会はこの流れを支持し続けてきた。

なぜだろう。

「見えない脅威」を梃子にしたのは海の向こうも一緒だ。アメリカでは9・ 11の後に愛国者法が成立。市民の自由が大幅に制限され。政府機関による市民への秘密裏の盗聴、令状無しの身柄拘束、 拷問を禁止していない第三国での取調べなどが行われた。でも5年たった今イラク戦争を支持しない米国人の割合は6割にまで増え、 英国でもブレアは退陣に追い込まれた。明らかにバックラッシュが起きている。

けれど日本ではその気配は見えない。それどころか今度は容疑段階で令状なしにDNAサンプルを採取し、 データベース組み込もうという動きがあるらしい。監視カメラのときと同様、 秋田の事件でも有効だったとかDNAプロファイル礼賛のプロパガンダも始まった。

何度も繰り返されてきたことかもしれないが、 なぜこの国では揺り戻しが起きないのか。なぜ自らの自治権を放棄し、生活のあらゆる部分に権力の介入を積極的に求め続けるのか。 同調圧力が強いとか、想像力が働かないからとかそんなことじゃもうひとつ納得がいかない。かといってバカだから、 じゃあまりに陳腐すぎるしなあ 。

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2006年9月 1日 (金)

時を〝駆ける〟少女

Poster02_1 今日は靖国通り沿いのテアトル新宿へ。 「時をかける少女」を見た。

以前「ヨコハマメリー」を見たときと同様に平日に行ったのだけれど、あのときとは比較にならない人だかり。少し早めに、 20分くらい前に入場したが整理券番号は120くらいだった。この混雑ぶりはシネマライズで見た「ヒトラー 最後の7日間」 以来だったかもしれない


アニメは好きな方だ。「時かけ」はキャラデザインがエヴァンゲリオンも担当した貞本義行氏。ジブリとはまた違った意味で無垢さというか、 処女性のようなものをキャラクターに投影できる人だと勝手に思っている。
今はそういう純粋さを体現できる女優は絶滅の危機に瀕しているし、あんな他人行儀のかけらもない共同体なんて今の日本にあるかどうか。 アニメーションという手段を選んだのは製作側にとって自明だったのだと思う。

Mo4317_2 劇場で見たアニメで不快になったものは数知れない(エヴァもそう)けれど、ついつい涙ぐんでしまったのは 「
クレしん オトナ帝国の逆襲」 以来だったかな。で、この細田守監督。相当に力のある人だと思った。
タイムリープをわかりやすく表現する繰り返しの多用や、「
マインド・ ゲーム」 をほうふつさせる〝走り〟のディフォルメ。ラスト近くの主人公の泣きの演出(どうやらのび太泣きというらしい)なんかは、CG、 リアリズム一辺倒の近年のアニメーションからはすっぽり抜け落ちているもの、つまりアニメでなければできないこと、 アニメだけが表現しうるものがふんだんに盛り込まれていると思う。

ブログをあたっていたら〝
ヤフーレビューで「時をかける少女」ファンが「ゲド戦記」 を酷評工作か〟 というエントリを見つけた。以下一部引用。

ネットで酷評されているとされる「ゲド戦記」だが、 驚くべき事実が明らかになろうとしている。
主にヤフーの映画レビューを中心に、同時期に公開されている「時をかける少女」 のファンが「ゲド戦記」   を酷評して回りながら、同時に   「時をかける少女」を 宣伝して回っているというのだ。
    (中略)一方、「時をかける少女」に対して少しでもネガティブなレビューがあると“ 「このレビューが役に立った」:   56人中9人、   そして高評価に対しては“ 「このレビューが役に立った」:448人中424人といった具合である。   

わたしはまだ「ゲド」を観ていないのでめったなことは言えないけれど、この工作活動を好意的に解釈すれば、「時かけ」 をより多くの人に観て欲しいだけなんじゃないかな。正当に評価してもらうためにいい悪いは別にして一番効果的と彼ら、 彼女らが信じる宣伝行為を行っているだけな気がする。

こうやって映画はカルト化していくんだろうし、「時かけ」はその価値を持つ映画だと思う。少し間を開けてまた行きたい。

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