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2006年5月 9日 (火)

〝時代〟への鎮魂歌 「ヨコハマメリー」

Mo4123_1     G.W. に浮かれる世間と、腹立たしいほどの行楽日和に嫉妬していた多忙な日々が終了し、今日は久しぶりの完全休日。 いつもよりちょっとだけ早起きして新宿へ。靖国通り沿いにあるテアトル新宿の階段を下りた。

    「ヨコハマメリー」を見た。

    わたしは涙腺がゆるいほうだ。音楽を聴いても、映画を見ても泣く。 最近で言えば「同じ月を見ている」で号泣した。そういう自分に対して自覚的だから(あるいはそうありたいから)、〝感動〟 という言葉に対しては常にものすごい抵抗とストレスを覚えてきた。わたしにとって「泣かされる」と「感動する」はイコールではない。そして、 このドキュメンタリーフィルムを見たことにより不覚にも(?)流した涙は間違いなく後者によるものだと思う。

    東北のド田舎、しかも盆地の真ん中で育ち、中学生時分 「あぶない刑事」のVTRを擦り切れるほど見たわたしにとって、横浜という名前は特別な響きを持つ。有体にいえば「自由」と「開放」 を意味していた。 だから横浜の大学も受けたし、東京に出てきてからも何度となく脚を運んだ。ところがわたしが初めて訪れた90年代後半 (奇しくもメリーさんが姿を消した直後)の横浜は、すでに「あぶ刑事」のイメージとはだいぶ異なって見えた。

それがわたし自身の変化なのか、 それとも町そのものの変容によるものなのかは当時はわからなかったけれど、 今にして思えば新自由主義にもとで大々的に行われたコミュニティー崩壊の前兆がすでにあったのかもしれない。

    約90分の尺の中で、 公共の概念が急速に消去されつつある近年の町の変容について直接的に語るシーンはほとんどない。 舞台女優の五代路子さんがメリーさんの姿で現在の伊勢左木町を歩いた部分があるが、 おそらくただ一度だけ通常のドキュメンタリーの手法から外れているこのシーンも、どちらかといえば監督の横浜という町への慕情、 町の風景そのものだったメリーさんへのオマージュではなかったか。

1000889_02_1     それでも、いやだからこそ余計に感じるのかもしれない。まともではない世の中で生きていくためにはまともではいられない。 意識的に他者との関わりを断ち私的空間に閉じ篭ることになる。 少なくとも今のわたしには容易になしえないコミュニケーションのあり方が、 あの時代を生きた人々にとっては当たり前だったのだろう。

    映画のラスト、ひとつの奇跡が起きる。 わたしはこれまで一般の方に比べれば多くの映画と、それと同じくらいのドキュメンタリーを見てきたと思う。 けれどもこれほど心を揺さぶられるシーンはそうない。本物の人生を生きた人の顔はここまで心を打つ。翻ってお前の顔は?  鼻をすすりながら自己と向き合うことを余儀なくされていた。

 

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» ヨコハマメリー [ロシア・CIS・チェチェン]
映画「ヨコハマメリー」を観てしまった。案の定、横浜に住んでいたので戻りたくなった。まさにストーリ−を説明しない方がイイ映画だが、とにかく舞台になった街は人を惹き付ける。今や、様々な立場のロシア・CISの人も多い。 http://www.yokohamamary.com/yokohamamary.com/ http://with.cot.jp/merry/11-22.htm http://www.hamakei.com/headline/1385/?ref=rss http://w..... [続きを読む]

受信: 2006年6月10日 (土) 10時04分

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