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2006年5月30日 (火)

死んだ女の子

  あけてちょうだい たたくのはあたし
  あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの
  こわがらないで 見えないあたしを
  だれにも見えない死んだ女の子を

  あたしは死んだの あのヒロシマで
  あのヒロシマで 夏の朝に
  あのときも七つ いまでも七つ
  死んだ子はけっして大きくならないの
 

  炎がのんだの あたしの髪の毛を
  あたしの両手を あたしのひとみを
  あたしのからだはひとつかみの灰
  冷たい風にさらわれていった灰

  あなたにお願い だけどあたしは
  パンもお米もなにもいらないの
  あまいあめ玉もしゃぶれないの
  紙きれみたいにもえたあたしは
 

  戸をたたくのはあたしあたし
  平和な世界に どうかしてちょうだい
  炎が子どもを焼かないように
  あまいあめ玉がしゃぶれるように
  炎が子どもを焼かないように
  あまいあめ玉がしゃぶれるように

(アーティスト元ちとせ 作詞ナジム・ヒクメット 作曲外山雄三)

BSで米ABCを見た。 イラク駐留の米海兵隊が民家でイラク市民を虐殺した疑惑についてのニュースが流れていた。
西側のメディアでイラクにおける駐留米軍の殺人行為が報じられたのはほとんど初めてではないか。

 

Img_903381_35529580_0

この写真があったブログからリンクが貼られていた海外のサイト (http://isahaqi.chris-floyd.com/)     では事件の詳細を伝えるビデオがアップされている。またイギリスの市民団体「Iraq    Body Count (http://www.iraqbodycount.org/)     」によればイラク民間人の死者は4万人だ。 とにかく大量に人が死んでいる。    

以前は、左派の自称現実主義者たちが唱える「ネオコンの暴走に歯止めをかける意味での9条改憲」(有体にいえば軍の存在を明記し、 集団的自衛権の行使は国際機関の決定に委ねる)に賛成できると考えていた。〝護憲〟の持つネガティブなイメージもあったろうし、 これほどマッチョな保守的言説がはびこる世の中ではそれがぎりぎりの妥協点になりうるのではと思ったからだ。

でもこの写真のような現実を前に、とてもそんな書生論を振りかざす気にはなれなくなる。もうわかっている。 9条を変えれば名実ともに米軍と一体化の方向へ向かう。戦闘地域への派遣が認められるということは、当たり前だが戦闘をするということだ。 無辜の市民を大量に殺す行為に加担するということだ。

国民投票法、共謀罪、教育基本法条文変更の3点セットが目指すところは明快。戦争のできる国だ。公権力が自らへの批判を許さない国だ。 これまでどう考えてもまかり通らなかったことが堂々と行われる時代がすぐそこまで迫っている。

徴兵なんかする必要はない。格差を作るとはどういうことか。アメリカを見ればわかる。好き好んで軍に入る者などそうはいない。 奨学金が欲しいから、仕事がないから地方の貧しい若者が兵士になっている。イラク入りしている予備役の兵士たちなどほとんどがそうだろう。 日本でいえば? そう「ニート」だ。メディアは今必死に彼らを悪者に仕立て上げている。あとは人差し指を上げてこう言えばいい。「I want you」。退路を断たれた若者たちは入隊するだろう。

もしくは「青少年教育促進法」(姑息な官僚はもっといい名前を考えるか)なんかを作ればいい。「労働は義務!  働かねぇヤツぁ軍隊で精神を鍛え直す!」というわけだ。何かといえば国家を呼び出すようになった現代の日本人だ。「オレがやってやるよ」 と言われれば喜んで自らの子どもを差し出すだろう。

そんな国が「普通の」国といえるのか。平和ボケの何が悪い。

 

 

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2006年5月26日 (金)

As provided by law...

今日、 26日は国会で教育基本法の条文変更について集中審議が行われた。 社民党保坂展人議員の「どこどこ日記」 によれば1日で7時間という長さだ。 果たして生産的な議論が行われているのかどうか…。ネタとベタの区別もつかずに吠えるばかりで、 考えるのが苦手なセンセイたちは 「もういいよ、わかんね」とばかりに疲れてグッタリかもしれない。

政府案が示され、この話題が盛り上がり始めたあたりから様々なブログを見ているのだが、一番新鮮で、蒙を啓かせられたのは 「
マスメディアが民衆を裏切る、12の方法」 の4月26日更新のエントリで示された論点だ。〝よみがえる利権~「法律の定めるところにより」という「逃げ口上」〟と題されたこの記事でブロガーの竹山氏は「〝愛国心〟論争は文部官僚、自民党文教族によって巧妙に仕立て上げられた囮、 煙幕に過ぎない。作成者の真の狙いは60年の雌伏のときを経て蘇った〝法律の定めるところにより〟という文言にこそある」と喝破する。
そして〝不当な支配〟の主体は公権力そのものであることを当時の資料や議事録をもとに証明してみせるのだ。

この文言挿入が何を意味するのか。別のブログを引用する。「
教育基本法ね」の古山明男氏は21日付の〝 「法律の定めるところにより」 は、日本教育の自滅〟でこう指摘する。

 

いま、教育を規定しているのは「学校教育法」という法律です。とにかく、 この法律の手口を知らないといけない。この法律はまず   「~は文部大臣が定めるものとする」 と法律の条文に書きます。それから、文科省の省令が作られて、具体的なことを定めます。たとえば、1学級人数だとか、 授業時数だとか。
省令は、法律の裏づけがあるから、法律と同じに働きます。さらに省令に付随させて文科省告示というのに詳しいことを書くこともあります。 有名な文科省指導要領というのは、この告示です。さらに、文科省通達というのを出して、「その省令はこのように運営せよ」 というようなことを言います。これが、 実質的命令になります。 
文科省の専制政治なのです。文科省が東京のオフィスから指示しているのですから、 実情にあわないこともいっぱいあるはずです。 ところが、それに対して教育委員会も学校も保護者・住民も、 問題点を指摘できるルートがまったくないのです。
 

これによって、違法状態が常態化していたとはいえ、 これまでは法律で歯止めのあった〝公権力による不当な支配〟が法律上もお墨付きを得ることになるわけだ。これは大変な変化だと思う。

その一方で大新聞のピンボケぶりといったらない。以下に一部引用するのは26日付読売新聞の社説
[教育基本法改正] 「共通点が多い政府案と民主党案」である。

  今後、特別委の審議は、 政府案と民主党案を土台に共同修正協議に進む可能性もある。 両法案が主要な点で共通していることを見れば、 共同修正もそう難しいことではないだろう。
共産党などの一部野党や教職員組合は、「愛国心の強制だ」「内心の自由の侵害だ」と廃案を主張している。自国の伝統や文化に関心を持ち、 理解し、国を愛するという価値観を形成できるよう「指導」することは、「強制」とは全く次元が違う。 諸外国ではごく当たり前のこととして教えている愛国心について、きちんと子どもたちに指導できない教員の方にこそ問題があろう。
教育基本法の制定から60年を前に、新しい日本の教育の理念を定める初めての改正へ、実質審議の幕が開いた。 拙速に流れることなく最良の改正案を目指し、内容全般にわたる十分な論議を求めたい。

相変わらずの対案病に冒されている民主党同様、 単に愛国心の陥穽にはまっているのかもしらんけど、 それにしてもちょっとデキが悪い。全体を読むとただの委員会傍聴記だ。    「最良の改正案」 と言うけれど教育に最良なんてありえんし(裁量はあるか)、そもそも今なぜ 「新しい教育の理念を定める」 必要があるのかついて何も語らないのはどういうわけか。「内容全般」って何の内容?  こんな文章が通ってしまう意味がわからない。 社説で論説委員本人の感情を吐露してどうする? 
書いた論説委員も「専門外だし良く知らね~」のかもしれないが、それを読まされたこちらは時間を損した気分だ。

 

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2006年5月24日 (水)

good night and good luck.

3ee06170s 「ダ・ヴィンチ」 にも後ろ髪を引かれたが、今日は早々に公開終了が決定したっぽい 「グッドナイト& グッドラック」を優先して見てきた。尺は約90分。 やっぱり映画はこのくらいがちょうどいい。

説明セリフのあまりないドキュメントのような脚本だった。50年代前半の米国に吹き荒れた反共ヒステリーについて、 ある程度の予備知識を前提としているように思う。マローたちが闘った相手はマッカーシー上院議員一人に留まらない。 彼が象徴する時代の空気そのものだったからだ。この点に関しては以前ウォーレン・ビーティの「レッズ」やデ・ニーロの「真実の瞬間」 を見ていたことが役立った。「赤狩り?何のこっちゃ」ならダイアン・リーヴスのヴォーカルを聴きながらまどろんでいたことだろう。 (蛇足だが「真実の~」は原題「Guilty by Suspicion」が当時の空気を明確に現していたと思う)。

見終わっての感想は「こういう時代もあったんだ
」ということ。本番中に吸うたばこもさることながら、 報道番組がジャーナリズムの名の下に極端なリベラル寄りのポジションを取り、 権力者に対峙することが視聴者の共感を得る時代があったのだ。それだけマッカーシィズムのもとの弾圧が異常だったともいえるが、 米国や日本の現状を鑑みれば神話的とさえいえる光景だろう。

マッカーシーの弾劾成功に酔う間もなく、 スポンサーのアルコアは番組を下り、「シーイットナウ」は日曜の午後枠に追いやられる。テレビの急速な普及に伴い「んなしらねーよ。 もうウチら考えんのめんどいからさ。とりあえずおもろいもん見せろ」とばかりに一般大衆の興味はクイズなど娯楽番組に傾いていったわけだ。

それはある意味自然なことなのだろうけど、それにしても今のテレビは行き着くところまで行った気がする。報道、 ドキュメンタリーは言うに及ばずバラエティーも昔のような力のある番組は消えてなくなり、どこかで見たような焼き直しのものばかり。 ドラマはキャスト優先でリアリティゼロ。 アメリカでは素人オーディション番組の投票数が大統領選を上回ったとか何とかいう話まであるくらいだ。 マローの危惧は最悪のかたちで実現してしまった。

けれど変化の胎動はなくはない。 多チャンネル化が進み、ブロードバンドが一般化し、ネットが普及するにつれて個人の興味嗜好はより細分化された。 巨人戦の視聴率低迷やマンガ雑誌の売り上げ減なんかはその典型例だろう。「どうだおもしろいべ?」と送り手が提示してきた価値基準を、 わたしたちはもはや正面切って受け止め、消費することはないし、そうすることを「アホくさ」とすら感じる人々の数は確実に増大している(同時に思考停止に陥った人も増えちゃったかもだが)。

こういった変化がいわゆる個室化、 孤独化をより加速させ、今以上に個人がむき出しになり国家に依存するのか。それともフランスにおけるデモのような横の連帯につながるのか。 仮に連帯したとして私たちは何に対して異議を唱えるべきなのか。そう考えると今だにマスメディアの役割は大きいなとか思った。



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2006年5月13日 (土)

つぶせ共謀罪 ~Blogのチカラ~

この週末が勝負なんだそうである。

共謀罪関連で引用度№1であろう保坂展人議員のブログによれば、16日(火) は午前中から入管法審議、教育基本法改正案の趣旨説明と重要な政治日程が続く。そして翌17日は党首討論だ。 衆院法務委員会の次回審議は16日15:30~17:30。ここで強行採決が行われる危険性があるようなのだ。

わたしは4月28日に委員会を通ってしまうと考えていた。 与党側の一連の動きに非常に強い意志が感じられたからである。それが一転して採決回避。そのときは「めざましテレビ」 で共謀罪が取り上げられたことが要因と思っていた(オギノフの肖像さん参照) がどうもそうでもなかったのかも。

ヘンリー・オーツ氏が自身のブログで4月23日~5月7日の期間内における共謀罪関連の報道量@ウェブの推移を表にしておられた (大変骨の折れる作業だったと思います)のを見てそう思った。

TBS、毎日新聞を除いて全国紙、キイ局はほぼ完無視である。以前のエントリで取り上げた道新の社説をはじめ地方紙は普通に書いていたようだが首都圏在住者でわざわざ地方紙を読む人もおるまい。 紙媒体、テレビを見ているだけの人はもちろん、ウェブにおいても各メディアのサイトやポータルを見ているだけではわからなかったはずだ。

となればやっぱりブログの力なのだろうか。

そこで検索ワードの注目度の推移がグラフ表示されるYahooブログ検索で「共謀罪」 と入れてみた。その結果がこれ

注目度が突然上がり始めたのは4月18日あたり。 18日といえば衆院法務委員会において共謀罪の審議が再開された日だ。わたしも18日の保坂議員のブログを見て初めて共謀罪関連のエントリを書いた。

そして注目度が第一次ピークに達するのが4月28日。むろん強行採決が一転回避された日である。 自民党のネット世論調査班(あるか知らんが)あたりが「やっべぇよ。愚民ども気付き始めてるよ。世耕サンに言っとこ」 みたいになったのかもしれない。もしそうだとしたらブロガーがロビイングを行ったようなものだ。こんなことはもしかして初めてではないか。

注目度は連休中に一服、 そして9~10日にブログ界は共謀罪批判で過去最大の盛り上がりを見せる。 9日といえばNHKが参考人質疑の様子をニュースで一瞬取り上げていたし、朝日新聞の社会面で共謀罪が特集された日だ。「編集局長、 何かネットが盛り上がってますよ。そろそろ共謀罪やっとかないと後々総スカン喰らいますよ。やばくないスか?」 みたいな議論が朝日社内で起こったのかな。
批判を始めてもオッケーという空気が醸成されるまで頬かむりか…。その姑息さは世論が盛り上がり始めた途端に 「ちょっとニュアンスを弱めてやるか」とばかりに小手先の再修正でお茶を濁そうとする自民党と何ら変わりない。

週明けは緊急集会も予定されている(山口花能さんのブログから転載)    

当面の予定
●14日(日) 12~14時 有楽町マリオン前にて街頭宣伝

●16日(火)  9時半~13時 国会前座り込み 17時~ 衆議院第二議員会館前で緊急集会

●17日(水) 12~13時 参議院議員会館内集会 18時半~  星陵会館(永田町・ 国会裏)にて超党派議員と市民の集い

今のところ集会には参加できない公算が大きい。でもできる限りのことをしなくちゃ。 以下のリンクは前述ヘンリー氏から頂戴したビラのpdfファイルです。
ビラ1  ビラ2


 

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2006年5月12日 (金)

芸術と教育 「ベルリンフィルと子どもたち」

Ph2_bptop  HDRにぶち込んであった 「ベルリン・フィルと子どもたち(原題:RHYTHM IS IT!)」を見た。 ベルリンフィルの指揮者サイモン・ ラトルの発案によるプロジェクトを記録した映画。人種、宗教などそれぞれ異なる背景を持つ子ども250人が集められ、 創作ダンスを練習、オーケストラに合わせてのダンスを大観衆の前で披露するまでを描く。

 映画を見ながらある記憶が蘇ってきた。わたしが通っていた中学校では文化祭で合唱、 創作ダンス、壁画製作、学級展示などをクラス対抗で行う伝統があり、まさにこの映画と同じような光景が繰り広げられていたからだ。 おしゃべりに夢中な女子に、斜に構えてやる気を見せない男子…。こんなんで満足に発表できるわけない。誰もがそう思っていた。

そんな雰囲気が変わり、みんなが一丸となったきっかけは何だったろうか。 他のクラスが予想以上の進歩を見せているのを知ったとき(また担任が煽るんだわ)かもしれない。それまで寡黙に練習に励んでいた女子が突然 「みんなマジメにやろうよ…」って泣き出したときだったかもしれない。

壁画担当だったわたしの場合はあるクラスメートの知られざる姿を目撃したことだった。 締め切りには到底間に合いそうにない。諦めムードの中、普段隠れてタバコを吸っていた奴が突然わたしたちを指揮し始めた。 実はメチャクチャ絵心のある奴だった。結果ありえない速さで完成にこぎつけた(もちろん賞は逃したが)。

合唱、ダンスの練習や、壁画製作などはほとんど授業の枠外で行われていたように記憶している。 授業に組み入れたのは音楽の時間ぐらいだったろう。 塾通いが当たり前になった今では想像もつかないけれどみんな普通に夏休みに学校に出てきたし、放課後の1~2時間、 部活の前に必死で練習した。そうしてそれまでは机を並べているだけだったクラスメートがひとつになっていった。 一生の友人ができたのもこの頃だった。

    おそらく美化込みの思い出を延々と述べてしまった。 この映画を見て同時に感じたのは芸術が学校教育においていかに重要な位置を占めているかということだ。 わたし自身知らず知らずのうちに組織立って物事を進めること、 それぞれの個性を生かして適材適所で作業することの重要性などを実践から学ぶことができたと思う。サイモン・ ラトルも公開にあたってのインタビューでこう語っている

他者とどう付き合うか、共同作業はどう行なうか、 感情をどう表現するか等を教えるのに芸術を用いるんだ。特に十代はいろいろな感情が内面から湧き出てきているのに、 それをどう表現したら良いか分からず破裂しそうになってるだろう、“魂のにきび”って言ったらいいのかな(笑)。 芸術は全ての物事に信じられない程の影響力を持つんだ。何かを癒すだけでなく、他のものを学ぶ手助けにもなるんだ。  

ベルリンフィルと共演した子どもたちも、わたしも、 そして同じような作業を行ったことのある人はすべてこの芸術の力を実感した経験を持つ。 そしてその経験は人生においてかけがえのない財産に転化していく。

    ここまで書いて思い出したことがある。 義務教育国庫負担金の問題だ。例の三位一体の改革で、 国は本来は憲法で国家に課せられた義務である教育の提供を税源委譲の名を借りて自治体に押し付けようとしている。 委譲された税源<地方交付税、補助金なのは明らかだから、自治体が自前で教育を提供しようとすれば質を落とすか単価を上げるしかない。 義務教育の建て前上後者は取りえない。必然的に地方の教育は劣化していく。アメリカで行われたように芸術、 体育の教員がリストラされる事態も起こるだろう。

001212 ググってみたところ文科省のサイトに教育の地域間格差について背筋の寒くなるようなレポートが掲載されていた。 税源委譲の結果40都道府県で財源不足が生じるという。すでに一般財源化した教材費、 旅費などではモロに格差が生じているのに今度は教員の人件費(現在は国と地方で折半)に手をつけようというのだ。 なぜこんなことがまかり通るのか不思議でならないし、そもそもこんな重要なことを知らない人が多過ぎる。

    不況を経験したベルリンは芸術の力で蘇ろうと模索しているとある雑誌で読んだ。 賃料が安いため欧州各地から若手のアーティストが集結しつつあるのだそうだ。前述したインタビューのラストでラトルはこう語る。

私は感じているんだよ、我々教育に携わる者は長きに渡って型にはまった人間を育ててきたと。 我々がこれまで築いてきた社会は消えたのだと思う、これからの社会のためにもっとクリエイティヴな人間が必要だ。 違う物事を結び付けたり、新たな方向に進むことのできる人間が必要なんだ。そして言葉でなく、芸術こそが社会を盛りたて、 人々に活力を与えるんだ。芸術は言葉よりもパワフルなんだ。(中略) いまベルリンではかつてない規模で経済破綻が進んでいる。芸術は存続のために戦わなくてはならないだろう。 我々は行動を起こさねば、これからの時代を生き残るためにね。この狂った時代、人々は芸術全般に生きる意義を見い出すだろう。

    わたしたち日本人は、 この狂った時代において何に生きる意義を見出すのだろうか。

 

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2006年5月 9日 (火)

〝時代〟への鎮魂歌 「ヨコハマメリー」

Mo4123_1     G.W. に浮かれる世間と、腹立たしいほどの行楽日和に嫉妬していた多忙な日々が終了し、今日は久しぶりの完全休日。 いつもよりちょっとだけ早起きして新宿へ。靖国通り沿いにあるテアトル新宿の階段を下りた。

    「ヨコハマメリー」を見た。

    わたしは涙腺がゆるいほうだ。音楽を聴いても、映画を見ても泣く。 最近で言えば「同じ月を見ている」で号泣した。そういう自分に対して自覚的だから(あるいはそうありたいから)、〝感動〟 という言葉に対しては常にものすごい抵抗とストレスを覚えてきた。わたしにとって「泣かされる」と「感動する」はイコールではない。そして、 このドキュメンタリーフィルムを見たことにより不覚にも(?)流した涙は間違いなく後者によるものだと思う。

    東北のド田舎、しかも盆地の真ん中で育ち、中学生時分 「あぶない刑事」のVTRを擦り切れるほど見たわたしにとって、横浜という名前は特別な響きを持つ。有体にいえば「自由」と「開放」 を意味していた。 だから横浜の大学も受けたし、東京に出てきてからも何度となく脚を運んだ。ところがわたしが初めて訪れた90年代後半 (奇しくもメリーさんが姿を消した直後)の横浜は、すでに「あぶ刑事」のイメージとはだいぶ異なって見えた。

それがわたし自身の変化なのか、 それとも町そのものの変容によるものなのかは当時はわからなかったけれど、 今にして思えば新自由主義にもとで大々的に行われたコミュニティー崩壊の前兆がすでにあったのかもしれない。

    約90分の尺の中で、 公共の概念が急速に消去されつつある近年の町の変容について直接的に語るシーンはほとんどない。 舞台女優の五代路子さんがメリーさんの姿で現在の伊勢左木町を歩いた部分があるが、 おそらくただ一度だけ通常のドキュメンタリーの手法から外れているこのシーンも、どちらかといえば監督の横浜という町への慕情、 町の風景そのものだったメリーさんへのオマージュではなかったか。

1000889_02_1     それでも、いやだからこそ余計に感じるのかもしれない。まともではない世の中で生きていくためにはまともではいられない。 意識的に他者との関わりを断ち私的空間に閉じ篭ることになる。 少なくとも今のわたしには容易になしえないコミュニケーションのあり方が、 あの時代を生きた人々にとっては当たり前だったのだろう。

    映画のラスト、ひとつの奇跡が起きる。 わたしはこれまで一般の方に比べれば多くの映画と、それと同じくらいのドキュメンタリーを見てきたと思う。 けれどもこれほど心を揺さぶられるシーンはそうない。本物の人生を生きた人の顔はここまで心を打つ。翻ってお前の顔は?  鼻をすすりながら自己と向き合うことを余儀なくされていた。

 

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2006年5月 2日 (火)

21世紀の新たな金脈 ~排出権取引~

060430_a     ここ何年かNHKの看板番組である「Nスペ」を視聴することが少なくなっていた。 BSで週4~5本放映されている海外ドキュメンタリーシリーズに比べて圧倒的に「つまんね」と感じることが多くなったからで、 見るとしても紀行、環境ものを睡眠導入代わりにする程度だった。

    ただ先週末の「同時3点ドキュメント:煙とカネと沈む島」 は久しぶりに50分が短く感じた。

    このシリーズがその他泡沫ドキュメントより優れている部分はどうやら2つ。3つの視座をもつことで、 安易かつ非生産的な二項対立の図式から逃れることと、3点同時にカメラを回すことによりライブ感が強調され飽きがこない点だろう。 企画自体は誰でも思いつきそうだが、それをできるのは予算と人員を割けるNスペならでは。30分番組を3本凝縮したようなイメージだ。

    今回のテーマは気候変動による地球温暖化。 3点に選ばれたのは温暖化ガスを大量に吐き出す炭鉱都市重慶、温暖化ガス排出権市場で先物取引を行う米ブローカー(@NY)、 そして海水面上昇により水没が近い島嶼国家ツバルだ。

 これまでであれば重慶とツバルの現状を取り上げて、結論は「現状は深刻。 待ったなしの対策が求められる」→ふ~ん。so what? という時間の浪費番組だったはず。 それがNYの企業が登場することで問題の構図を俯瞰しやすいようになっていた。

060430_b わたしがもっとも印象的だったのが排出権のブローカーが言った「良心では人は動かない。 我々の自由市場と資本主義経済だけが温暖化を止め得るのだ」という言葉。いやいやアングロサクソンの傲慢さ、強欲さたるや…。 経済戦争に勝てないわけだ。評価するしないは別としてわれわれにもっとも欠けているロジックだろう。

    番組のラスト、国際会議で基調講演したこのブローカーは 「儲けるか、傍観するかそれはあなたたち次第」とぶち上げる。そこで京都プロトコル、排出権取引の市場について少し調べてみた。

    何と2010年には26兆円に達するとの予想もあるらしい。 「温室効果ガスの排出権取引を巡る議論」 というレポートによれば削減義務の割合(対90年実績比で08年~12年に年平均いくら減らすか)は日本6%、EU8%、アメリカ7%、 カナダ6%、ロシア±0%である。90年時の各国のエネルギー効率からしてバラバラなのだからこの線引きはやや不公平に感じた。 おそらくアメリカに譲歩した結果だろう。それでもなお調印を拒否するアメリカの姿勢は理解しがたいし、 その国に本拠を置くブローカーが巨額の利益を上げるというのも何だかなあと思ってしまう。 国際市場への参加条件に議定書調印を義務付けるとか(これだと自由市場とはいえないか)しないと不公平感はぬぐえない気がする。

    元々省エネに熱心だった日本や欧州諸国にとってはかなり厳しい目標設定と思う。もう極限まで雑巾を絞っている企業も多いだろうし。 中国の政府高官も番組内で語っていたがこれからは、ロシアや中国など削減義務を課されていない(あるいは目標値の小さい) 発展途上国が排出権を輸出するようになるのだろう。

    この分野では当然輸入超過になる日本が利益を上げるとすればやはり省エネ技術の輸出か。番組では日本の商社が重慶の炭鉱を訪れ 「排出されるガスを減らすお手伝いをしましょう。減らせば減らした分だけ先進国の企業に売れますよ」と商談を持ち込んでいる様子が描かれる。 これならどこへ行っても理解を得られる。優れたビジネスモデルだと思った。

 

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